皆さん、こんにちは。

この度「伊岐遠江守流」のホームページを開設いたしました。

私は、日本の筑前黒田藩に伝わる伝統武芸である伊岐遠江守流を現代に再興させるために、流祖が目指した原点を可能な限り紐解き、武士道の気脈を繋ぎ続けてきた先人の方々に敬意を払いながら、伊岐遠江守流の「技と心」を広く地域社会に、また世界に紹介したい所存です。これらのことは、日本伝統武芸の正しい継承と発展に寄与するものと確信しています。

 先ずは、伊岐遠江守流とのご縁についてです。

私は、幼少の頃から剣の道を志し、恩師角正武先生(剣道範士)を通じて、古武道の奥深さや武士道の気脈を繋ぎ続けてきた先人の方々に敬意を持ち、今に至ります。
一方、私が、在ルーマニア日本大使館に勤務していた頃から、妻がヨーロッパの伝統手編みに関心をもちまして、その伝統と実用を日本にも広めたいとのことで、福岡市内に店舗を構えました場所が黒門2-5ダイアパレス大濠公園でした。偶然にも、そこは黒田藩槍術指南伊岐流道場跡地でありました。そして、マンションの表に出された石碑を拝見し、伊岐流について私なりに少し調べさせて頂きました。その後、古文書の「甲子夜話」や九州大学の「伊岐流鎗術目録」の存在を知りました。さらに、妻の親友を通じて伊岐家を現在に継承する伊岐典子様にお会いすることができました。そして、平成30年9月17日に福岡市内にて、二人で伊岐遠江守流再興について話し合いました。

次に再興したい内容についてです。今後はさらに研究を続ける事で、流祖が剣術を修行した後に、伊岐遠江守流を立てたことを基礎にして「剣と槍の形稽古法」や「免許状相伝」などを再興させたいと思っています。

甲子夜話には、以下の通り記載されています。 

 

甲子夜話とは、肥前国平戸藩第9代藩主松浦清(号は静山)が、文政41117(1821.12.11)の甲子の夜に書き起こしたものです。その後、静山が没する天保12(1841)までの20年間にわたり随時書き続けられ、正篇100巻、続篇100巻、第三篇78巻に及びました。その正篇巻之146に伊岐遠江守流についての記載があります。 

 

伊岐遠江守流

 

徳川幕府の林大学頭述斎が、筑前国黒田藩の家臣に、伊岐流という槍術を伝える者がいると聞いて、黒田藩にある社中の者を使って質問させました。その時に、筑前国黒田藩が徳川幕府に提出した書付けであると言って、私に一日中お見せになりました。その伊岐流というのは、神君徳川家康公が用いた槍術であるとのことでしたので、私は貴重なものであると思い、その書付けを写し留めました。


     伊岐久右衛門

伊岐遠江守流槍術について、これまでに伝わっている事などを御尋問されるということですので、昔からの記録と申し伝えの趣旨をもちまして、おおよそ書き取りましたので、左記のとおり差し上げ申し述べます。 

  伊岐遠江守真利は、河野対馬守通直の子孫でございます。 

通直には男子6人がおりました。嫡男は河野、二男は土井、三男は徳能、四男は伊岐、五男は稲葉、六男は林と名乗りました。伊岐遠江守真利は大和の国の柳生谷に住居しておりました。 

  その後は、織田信長公に仕えて壱万石を領地として与えられ、信長公亡き後は、豊臣秀吉公に仕えて、文禄4(1595)秀吉公の命により小早川秀俊(秀秋に改名)卿の後見として、筑前国名島に住居し、壱万二千石を領地として与えられました。そして、慶長3(1598)1月、秀吉公の命により秀秋卿は越前北ノ庄へ転封となり、減封となりました。 

その後、慶長3(1598)8月、秀吉公が死去すると、徳川家康公より御旗本に仰せつけられ、又後に、秀吉公の遺命のもとに慶長4(1599)25日付けで、家康公ら五大老連署の知行宛行状が発行され、秀秋卿が筑前・筑後国に復領の際、再び、秀秋卿の後見として、筑前国名島に住居し、壱万二千石を領地として与えられました。慶長5(1600)に秀秋卿がお国替えとなった折に、随行して備前国に赴き、備前常山城主となりました。 

  その後、慶長7(1602)、秀秋卿の死去に伴い、御家断絶となった時、予見できたにもかかわらず、不注意でありました事によりまして、池田三左衛門様にお預けとなりました。一生涯その地に住む様に御懇命を蒙り、備前国において病死いたしましたとのことでございます。定紋は角切折敷の内三文字を用いました。 

真利の妻は、稲葉美濃守様の御母春日局の妹でありました。真利には男子二人がおりまして、長男は亦左衛門、次男は半左衛門と言いました。半左衛門は尾張徳川大納言様に召出され、采地千石をくだされ、今日まで子孫が相続しております。もっとも、半左衛門は槍術については召抱えられなかったとのことでした。 

   伊岐遠江守真利は、若年の頃より、柳生但馬守様に従いまして、数年間、太刀術を修行しておりました。朝練夕磨の功を積み、但馬守様の第一の門弟となりました。但馬守様がお亡くなりになった後も、御子息の但馬守様をはじめ、御連技様方から、残らず剣術を取り立てられ、芸術成就いたしましたとのことでございます。 

 

  遠江守真利は、師但馬守様が御在世のころから、直鎗一流の鼻祖たらんとの  志が深くありました。十余人の兵師に会って、術法の薀奥を味わい、日夜倦くことなく、身命をなげうち工夫鍛錬をもって、終に直鎗一流を立てました。そして、伊岐遠江守流と号しました。その名は広く聞こえておりました。織田信長公、豊臣秀吉公、神君徳川家康公、徳川秀忠台徳公に及びましては、毎度、切組試合の術を上覧に備えて、流儀をも申し上げました。殊更に神君家康公から上意を蒙り《幕府の命を受けて》下野国やなひそと申す深山に三カ年篭り、九尺柄鍔鎗の勝術を工夫しました。

そして鍛錬成就の上、駿府においてその術を上覧に備えましたところ、厚く御称美の上、御刀一腰、御手馴れの竹刀ニ筋を拝領いたしました。その節に、神君家康公から、この流儀を後代まで重く伝承するようにと仰せつけられました。これにより、その後、切組試合ともに他見を許しませんでした。平常稽古とても作法を正しく行う流儀を流法といたしまして、免許状相伝の時は、これらの趣旨の掟書き一巻を添えて堅く守らせることにしておりました。また、九尺柄は切組成就の上、鍔鎗二筋を仕立て、一筋は神君家康公へ差し上げの上、一筋は手元に置いております。

 

  伊岐亦左衛門栄勝〔遠江守真利の長男。定紋は丸の内すはま〕は、父真利が芸術を伝えて、父が亡くなった後に、江戸に出て、諸侯方をはじめ、もっぱら鎗術の指南をしておりました。諸家より追い追い御招きがございましたけれど、御当家黒田藩を大望いたしておりましたので、脇様へは罷り出でませんでした。筑前国黒田忠之公の御代に保科弾正様のお取り持ちをもって、筑前国黒田藩へ召し抱えられました。その後、志願いたしまして御暇を願い、筑前国を出て、所々遍歴いたしまして、再び江戸へ赴き住居し、倅久太郎とともに諸侯方をはじめ鎗術門弟を仕立てておりましたところ〔そのころの誓紙ならびに諸侯方よりの御書等は、今日まで持ち伝えております〕、稲葉美濃守様の御取り持ちをもって、おおよそ志願がかないました。既に鎗術上覧にて、日限も相決する程に至り、急病にて死去いたしましたとのことでございます。 

 

  伊岐又左衛門栄利〔亦左衛門栄勝の倅、初名久太郎〕は、父栄勝の死去後も、江戸において、相変わらず門弟を仕立ておりましたところ、筑前国黒田光之公の御代に、黒田藩へ召し抱えられました。追い追い門弟を仕立て〔そのころの誓紙等、今日に持ち伝えています〕ておりました。黒田綱政公の御代の初めまで勤めておりましたところ、病身となりましたので、保養のために上方へ罷り出でたい旨を再三願いました。願いの通り、仰せつけられましたので、姓名を改めて花楽軒遊計と号し、泉州堺に行きまして、それより伏見へ滞留いたしました〔この時、淀稲葉様御家中に、段々と門弟に成りそうな者がおり、誓紙等、今日に持ち伝えています〕。その後、京都に居住いたしました〔この時も門弟を仕立てており、誓紙等、今日に持ち伝えています〕。 

伊岐又左衛門栄利には実子がおりませんでしたので、治部右衛門と申す者を養子とし、鎗術修行をさせて、上方表に行く折にも付き添い参らせました。追い追い修行させていましたところ、京都において治部右衛門は病身となりましたので、お国へ帰り、願い出によって遊計の手元から離別することにいたしました。 

 

  遊計には、上方へ罷り登るまで、筑前国黒田藩には免許済ましの門弟はいませんでした。そこで、黒田藩から「伊岐遠江守流の流儀を後世に御残しなされたい」との御詮議がございましたので、門弟の内から器用な者を選びました。すなわち粟田文右衛門、同佐左衛門〔文右衛門の弟〕、浜田五郎兵衛、林兵右衛門、この四人を京都へ差し登らせました。文右衛門と佐左衛門の兄弟は、免許となり、五郎兵衛と兵右衛門は、目録済ましとなり、帰郷させました。 

然るところ、その後、遊計から粟田文右衛門に対して、養子の治部右衛門とは離別いたした旨を伝え、ついては、伊岐家の相続に立つべき者がいない間は、粟田文右衛門が今一度京都に登り、一子相伝の奥意を皆伝に及ぶべくようにその旨を申し伝えました。則ち、粟田文右衛門は、京都へ罷り越しまして、又々修行を重ね、免許皆伝済ましとなり帰郷いたしました。遊計は、極老となり、京都へ居住のまま、同所において病死いたしました〔洛外知恩院の塔頭、常称院にお墓がございます〕。 

ただし、遊計の祖父遠江守へ神君家康公より拝領いたしました御刀、御竹刀、ならびに仕立て差し上げました九尺柄鍔鎗の控えをはじめ、持ち伝えております品々は、遊計が極老に及びましたので、そして、筑前国黒田藩には伊岐名跡を相立つべき人柄がいないので、それまで粟田文右衛門へ預け置くように申しました。伊岐名跡相立てられたならば、その者へ右品々を譲りくれますように頼み遣わされました。則ち、粟田文右衛門方へ預かり置くように申しました。 

 

  粟田文右衛門が京都から帰りました後に、市郎大夫と申す者を養子にいたしました。数年間、市郎大夫に鎗術の修行をさせておりましたところ、芸術成就となりましたので、兼ねてより遊計が願望いたしておりました次第もあり、則ち、右の趣旨をもって、粟田文右衛門から黒田藩主へ願い出て、その願い出のとおり市郎大夫は、黒田藩に召し抱えられました。そして、伊岐家の名跡を継いで〔伊岐家に伝わる品々で、遊計から粟田文右衛門に預け置きました分は、いずれも市郎大夫に譲られました〕、家業を勤めることとなりました。 

しかし、その後、同人は病死し、相続の倅はおりませんでしたので〔市郎大夫には、男子が二人おりましたが、同人は、別の家に召し抱えられました。養父の粟田文右衛門には相続の者がおりませんでしたゆえに、市郎大夫の長男の亀次郎と言う者を粟田文右衛門の相続に遣わし、粟田文右衛門は身を退きました〔名を泰翁と改めて〕。亀次郎が家督を相続したところ、同人は早く亡くなったので、又々、市郎大夫の次男の林之助と言う者を亀次郎の相続に遣わしました。右、林之助は、後に十右衛門と改めました〕、名跡断絶を仰せ付けられました〔この時、家に持ち伝えの品々は、又々、粟田文右衛門家に預け置きました〕。 

 

  右のとおり、市郎大夫が病死し、名跡断絶となりました。粟田泰翁〔俗名は文右衛門〕の門弟の内の高浜十兵衛〔現在の高浜千五郎の曽祖父である〕が免許相済ましとなりまして、追い追い門弟を仕立てておりましたところ、同人の門弟の内の草場弥内(旧姓:河野)という者が、鎗術の鍛練を致して、目録免許までも高浜十兵衛から相伝し、伊岐名跡にも立つべき芸術になりましたので、則ちその段、高浜十兵衛から粟田十右衛門〔泰翁の孫、実は市郎大夫の次男である。泰翁は老年になり、鎗術の奥義を伝えました。 

これにより、泰翁の死去以後は、伊岐家に持ち伝えの品々は、いずれも粟田十右衛門に預け置きとなりました〕へ申し合わせて、弥内に修行させました上で、兼ねて黒田藩主から仰せ付け置かれました趣旨もありましたので、弥内へ伊岐名跡を御立て下されますならば、一子相伝の奥意まで皆伝仕るべき旨を粟田十右衛門から黒田藩主へお願いになりましたところ、願い出のとおり黒田藩主は、弥内へ伊岐名跡を御立て下されました。則ち、粟田十右衛門から奥意皆伝致しました〔伊岐家に持ち伝えの品々は、粟田十右衛門預かり置き分、いずれも同人より弥内へ譲られました〕。 

そして、家業を勤めておりましたところ、老年になりましたので、願い出により身を退いて、私が家督を相続するよう仰せつかり、家業を勤めさせております事を申し上げます〔家に持ち伝えの品々は、いずれも今に所持しております〕。   以上 

亥十ニ月 伊岐久右衛門 

 

  今の浜松公(水野左近将鑑)は、林大学頭述斎の門人であるので、未だ唐津公であった時、從通してその家臣を筑前藩に赴かしめ、槍法を学ばせたと言われている。又、越前藩に神祖家康公の御用いた剣術を伝える家がある事をも林大学頭述斎は語っていました。詳しいことは他日、尋ねて研究するべきだと思います。